脱獄王2007年06月04日(月)

白鳥由栄(1907-1979)
昭和11年、青森刑務所を脱獄。
昭和17年、秋田刑務所を脱獄。
昭和19年、網走刑務所を脱獄。
昭和22年、札幌刑務所を脱獄。
網走刑務所を脱獄したのは、開所以来、白鳥ただひとりだけだという。
2歳のとき両親に死に別れ、親類の豆腐屋の養子となる。のち結婚して子供を得る。出稼ぎで2回蟹工船に乗り、そこで博打を覚えてしまう。豆腐屋家業の裏で、博打のため土蔵破りをくり返す。昭和8年4月9日、仲間とふたりで盗みに入った家で発見され、殺人をおかしてしまう。2年後、その時の共犯者が別件の土蔵破りで捕まったのを新聞で知り、義理堅い白鳥は罪をひとりだけにかぶせないため、自首する。
ところが共犯者が「主犯は白鳥」と供述したため、白鳥は主犯扱いされ、過酷な拷問まがいの取り調べを受けた。青森刑務所では看守に毎日「人殺し野郎」「よく平気で生きていられるな」「お前のような人殺しは、どうせ死刑だ。早く死んでしまえ」と嘲笑され、顔に啖を吐かれるなどの冷酷な取扱いを受けた。
昭和11年6月18日、白鳥は青森刑務所を脱走する。
入浴時に手桶にはめられていた針金のタガをはずし、密かに入手。房の錠前の下には食器を出し入れする小窓があり、それだけは中から開けられた。汚物を捨てるため房外に出たときに、その小窓と錠前の距離を目測で確認。後日、小窓から手を出して、入浴でふやけた掌を鍵穴に押し付け、鍵穴の型をとる。また看守の巡回時間を覚え、15分の空白があることを確かめた。看守の足音を数えて房から出口までの距離を測った。針金の手製鍵は、独房だけでなく、舎房、裏門にもすべて合った。こうして白鳥は針金一本で青森刑務所を破った。
脱走後、白鳥はわずか3日で逮捕される。昭和11年8月28日、青森地裁で準強盗殺人と逃走の罪で無期懲役判決が下った。青森刑務所、宮城刑務所を経て、昭和12年4月7日に小菅刑務所(現・東京拘置所)に移監される。ここの戒護主任・小林良蔵は、白鳥を普通の囚人として扱った。白鳥は小林戒護主任に恩義を感じ、おとなしく模範囚として過ごしていた。
しかし、太平洋戦争の戦乱を避けるため、白鳥は秋田刑務所に移監される。
秋田では白鳥の名は脱獄囚として知れ渡っており、秋田刑務所では白鳥を鎮静房という特別な独房に収監した。昼間でも光が射さない天窓がひとつ、照明は薄暗い20ワットの裸電球がひとつ。璧には銅板か張られ、扉には小窓すら無い完全な密室。ここに白鳥は24時間手錠をはめられて収監された。冬になるとコンクリートの床は凍りつく。毛布を所望しても無視された。
昭和17年6月15日、白鳥は秋田刑務所を脱獄する。
看守にはあらかじめ心理戦を仕掛けて疲労させた。正座の規則にそむいて、房の中で体操して暖をとったり、布団を頭までかぶって眠る。看守はいつ脱獄されるかわからぬ恐怖から、次第に神経質になっていった。
「白鳥、布団から顔を出せ!」
「白鳥、体操は規則違反だぞ!」
と叱責するたびに
「わたしゃいつでも逃げられるんですよ。そんな厳しいことを言うと、あんたが当直のときに逃げちまいますよ」
と薄ら笑いを浮かべる。こんなことが毎晩くり返された。当時、当直担当のときに脱走を許したら、下手をすれば免職だった。過度の緊張感から、看守は白鳥の監視を嫌がるようになっていた。しまいには、白鳥が看守に小声で「脱獄するぞ」と小声で言うと、その低い声の迫力に看守は膝が震えるほど威圧されるようになったという。
鎮静房の璧も扉も破る事は不可能だったため、白鳥は天井から脱走した。天窓には鉄格子が付いていたが、腐りかけていた。毎晩、看守が寝静まってから、璧の隅を使ってよじ登る練習をくり返した。天窓の枠からブリキ片と錆びた釘を調達し、ギザギザに尖らせ、即席のノコギリを作った。毎晩、看守交替のわずか10分の間に、天井に登り、ノコギリで天窓をワクの四方を切る地道な作業を続けた。暴風雨の晩、闇に乗じて白鳥は脱走に成功する。
脱走した白鳥は突然、小菅刑務所官舎の小林良蔵戒護主任宅に姿を現した。秋田から東京まで夜だけ移動し、荒川の官舎地帯を一軒一軒探し、50何軒目かにようやく探しあてたという。白鳥が秋田刑務所を脱獄したのは、刑務所の過酷な扱いと、看守の横暴な態度を直訴したかったからだった。
「刑務所内の処遇改善を司法省に直訴したかったが、自分が言っても無理だと思った。小林主任さんはよくしてくれたから、話を聞いてくれると思った」
小林は白鳥を家に上げ、熱い茶とさつまいもを出した。その日の明け方、小林に付き添われて白鳥は小菅警察署に自首した。
白鳥は「逃走罪」で懲役3年を追徴され、網走刑務所に移送される。
網走刑務所は冬はマイナス30度、暖房のある室内でもマイナス8度ほどという酷寒の地にある。自分の吐いた息で、眉毛や睫毛が凍る。その厳寒の中、白鳥は夏物の着物一枚で凶悪犯用の特別房に放り込まれた。後ろ手にはめられた手錠、足枷には20キロほどの鎖玉がつき、ボルトで溶接止めされていた。ナットの頭部はハンマーで叩きつぶされ、完全に鍵穴のない手錠となった。手錠はヤスリで切断する以外はずれないため、入浴も許されなかった。食事は犬のように容器に顔を突っ込んで食べなければならなかった。トイレも許されず、用便も垂れ流しで自らの糞尿にまみれる始末だった。手首と足首には手錠の摩擦で傷がつき、化膿した。その傷には蛆がわき、成虫に孵って、窓の金網が真っ黒くなるほどハエが一面にべったり貼りついた。あまりの惨状に看守の一部からも非難の声があがるほどだったという。
にもかかわらず、昭和19年8月26日、白鳥は難攻不落の網走を破った。
白鳥は食事のたび、味噌汁を少し飲み残してはそれを口からナットに垂らしていた。味噌汁に含まれた塩分でナットが酸化し、やがて腐食してゆるむようになる。最初のネジをはずすまで、ほぼ1ヶ月かかった。以後は最初に抜いたネジをドライバー代わりにして次のネジを抜くことを繰り返した。こうして手錠、足枷、腰鎖のすべてをはずしてしまう。
白鳥は独房の扉についている監視窓から脱出する。監視窓には鉄格子がはまっていたが、白鳥は毎日、根気良く鉄格子を揺さぶり、3ヶ月かけて鉄格子を緩めた。決行の日、白鳥は監視窓の鉄格子をはずし、肩の関節をはずして監視窓から強引に這い出た。天井によじ登り、採光の天窓を破って屋根に出る。そのまま屋根を伝って地上に降りる。工場の暖房用煙突の支柱を2本引っこ抜き、その丸太を使って4.5メートルの高さの塀を越え、網走を脱走した。
白鳥はもともと8月25日に脱獄するつもりだった。しかしたまたまその日は白鳥にも優しく声をかける看守が夜勤巡回の日であったため、白鳥は決行を1日延ばし、26日に脱走したという。

現在の博物館網走監獄には、白鳥の脱走の様子がマネキンを使って再現されている。白鳥が収監されていた監獄も保存されている。白鳥の脱走防止のために床が強化されており、他の房よりも床が高くなっている。
脱走後の白鳥の行方は2年間掴めなかった。あるとき札幌に向かう途中、目立たないよう畑沿いを歩いていた白鳥は、農夫にスイカ泥棒と間違えられた。問答無用で農夫に木刀で袋叩きにされたため、白鳥はこの農夫を殺してしまう。白鳥は殺人容疑で逮捕された。
白鳥はこの件に関して正当防衛を主張した。当時すでに白鳥は世間に名が知られ怖れられていたが、彼の弁護を引き受けた斎藤忠雄弁護士は、白鳥の供述を聞いて弁護をする決心をする。
「先生、わたしゃ私利私欲で脱獄したわけじゃないし、今回のことも畑泥棒と間違われ、木刀で滅多打ちにされて、殺されると思いついやってしまったんです。しかしやったことはやったことなんで、納得のいく判決なら刑に服します」
しかし昭和21年12月16日、札幌地裁において殺人、加重逃走罪で死刑判決が宣告される。過去の数々の脱獄のため「矯正不能で死刑以外の刑罰はない」というのが理由だった。弁護人は量刑不当としてすぐに控訴したが、脱獄をおそれた当局が、身柄を拘置所から札幌刑務所に移送してしまう。
死刑判決の瞬間、白鳥は法廷で怒りをあらわにし、
「必ず脱獄して、あんたらの寝首をかいてやる」
と怒鳴り、判事や検事を睨みつけた。この威圧感にその場は凍りつき、それを伝え聞いた官舎住まいの判事、検事、刑務所看守の家族はみな、白鳥の脱獄を恐れて軒並み門柱の表札を剥がしてしまったという。
札幌刑務所では24時間体制で、2人一組の看守が2組、拳銃を携帯して白鳥を監視した。逃亡防止のため白鳥の射殺許可もおりていた。札幌刑務所はあらかじめ白鳥の過去の調書から脱独手段を調べ、房扉、天井、採光窓、鉄格子などを新たに補強してあった。ここで看守は白鳥が頻繁に、天井を調べるように見上げていることに気づく。看守は白鳥が天井を破って脱獄を企てていると判断し、白鳥が房外へ出たときに天井を入念に調査した。天井を棒でつつき、板の継ぎ目、鉄格子のゆるみを徹底的に調べた。
こうした備えにも関わらず、昭和22年4月1日、白鳥は札幌刑務所を脱獄する。
白鳥は天井ではなく、床を破った。しきりに天井を眺めていたのは、床の工作を調べられないためのフェイントだった。白鳥は便器の鉄タガの接合部分を手で引きちぎってはずし、古釘を使ってタガに鋸状の歯を作って、手製のノコギリを作った。これを使い、堅い楢板の床を切り抜いた。床下からは食器と手を使って掘り進み、2メートル掘った所で外に出た。積雪のため中塀は簡単に越えられた。外塀は2.5メートルの高さだったが、白鳥は塀をななめに駆け上り、飛びあがって塀の上端をつかみ、そのまま乗り越えた。
警察の必死の捜査にも関わらず、脱獄後の白鳥の行方は不明だった。脱獄から295日後の昭和23年1月19日、札幌に近い琴似町で、白鳥は警官の職務質問を受ける。大きなふろしき包みを抱えていたため、闇物資を運んでいるのではないかと疑われたのだ。警官は白鳥に「今夜は冷えますね。どちらへ?」と声をかけた。
白鳥は警官に「旦那、煙草1本くれませんか」と言った。当時、煙草は貴重品で、あまり手に入る状況ではなかった。しかし警官は手持ちの煙草を一本渡し、火をつけた。煙を吸い込むと、白鳥は警官に素性を告げた。
「旦那、実は私は昨年札幌刑務所から逃げた白鳥という男です」
警官は一瞬なんのことかわからず、しばし後に目の前にいる男の手配書を思い出した。手配書の中でも大物中の大物だ。巡査は緊張と恐怖で膝ががくがくするのを押し殺しながら、白鳥を派出所へ連行した。白鳥はおとなしく警官に従った。
白鳥は背負った荷物の中に山刀を忍ばせていた。警官を殺そうと思えば殺せたらしい。しかし職務質問した警官の態度が良かったため、自ら名乗ったのだという。逮捕後、「もし『オイお前』と強圧的な尋問だったら、きっと殺して逃げていただろう」と供述している。
白鳥の公判が再開され、斎藤弁護士が再び弁護を担当した。4ヵ月後に出た判決は、懲役20年。脱獄後の殺人は、正当防衛こそ認められなかったものの、殺意なしとされ傷害致死となった。これと逃走罪と合わせて20年の判決となった。以前に課された無期、懲役3年と合わせた累加刑となったが、死刑は撤回された。
白鳥は当時最も厳重な刑務所として名を馳せていた、府中刑務所に収容される。府中に移送されたとき、白鳥は網走で用いられたのと同じ、後ろ手錠、足枷、腰鎖で厳重に拘束されていた。府中刑務所の所長は移送後にはじめて白鳥と接見したとき、白鳥が脱獄のための脱獄をしてきた男ではないと感じた。所長は白鳥の拘束を解かせ、入浴を許し、体を洗わせた。ヤスリで手錠と足枷が切られる間、白鳥はきょとんとして所長を見ていた。
白鳥の収容された独房は特別房だったが、手錠などの拘束なしで収容された。房には一輪挿しがあり、花が活けてあった。所長は白鳥に刑務所内の花壇の花づくりの仕事を与えた。白鳥が刑務所内で仕事を得たのは、はじめてのことだった。所内の運動会や相撲大会に出場する機会も与え、他の囚人と触れる機会を与えた。所長はたびたび白鳥に「なにか辛いことはないか?」と声をかけ、毎日のように話をした。府中刑務所の塀は2メートルほどで、白鳥にとって越えられない高さではない。しかし白鳥はぼんやりと塀を眺めるだけで、脱走する気配はなかった。
白鳥は府中で模範囚として過ごし、昭和36年12月22日、刑期を勤め上げ仮出獄となった。更生保護施設に2年いた後、東京都荒川区のアパ−トや台東区のドヤ街に住み、建設工事の日雇いをして過ごした。昭和48年夏に故郷の青森に行く。長い囚人生活の間に家族とは別離していたため声をかけることができず、遠くから長女が洗濯物を干すのを眺めては帰る生活を送っていた。
仮出獄から18年後の昭和54年2月24日、白鳥由栄は三井記念病院で死去する。享年71歳。死因は心筋梗塞。
本来ならば無縁仏となるところだったが、遺骨を引き取る人がいた。仮出所後に荒川区のアパート暮しをしていた頃、白鳥は近所の5歳の女の子を可愛がっていた。その女の子が白鳥のことを忘れずにいて、遺骨を引き取った。
まぁ、とんでもない野郎だ。
東北地方では昭和のむかし「白鳥にくれちゃうぞ」といえば、どんなに泣き続ける子供でもピタっと泣き止んだらしい。それほど「凶悪犯」「脱獄犯」として怖れられた。刑務所を脱走した凶悪犯がその辺をうろついてるかもしれない、というのは、当時たとえようもない恐怖だっただろう。
もとはといえば最初の逮捕が押し込み強盗の挙句の殺人なのだから、身からでた錆と言えばそれまでだ。しかもその理由が博打とあっては同情の余地はない。しかしそういって片付けられない程に、当時の刑務所は過酷な環境だったらしい。悲惨極まる人権蹂躙や強制労働が公然と行われていた。
むろんこれは時代背景が大きな原因だろう。ただでさえ当時は戦争真っ只中で、看守は強いストレスに晒されていた。特に網走刑務所は国から期限内に道路を建設することを強いられていた。北見道路(現在の国道39号の一部)の建設の際には200名前後の収容者が死亡している。死亡者はそのまま道端に捨てるように埋められる有様だった。
収容者は食事が保障される。しかし当時の食糧事情は劣悪で、看守は収容者よりもひどい食事をとらざるを得なかった。時には食事が出ないことさえあった。自分や家族が飢えているのに、目の前の囚人は一日3食が保障されている。これで収容者につらくあたらないほうがおかしい。
白鳥由栄の度重なる脱獄は、当時のこうした悲惨な刑務所の状況が背景となっているだろう。しかし、同じような環境にあった収容者の誰もが、白鳥のように脱走できたわけではない。
犯罪者であることには変わりないが、白鳥の言動は筋と仁義が通っている。白鳥は一度として自己のための脱獄をしていない。すべて刑務所の理不尽な蹂躙、裁判の不条理を訴えるための脱獄だった。そのふたつの理由がなかった小菅刑務所と府中刑務所では、白鳥は脱獄を企てず模範囚として刑に服している。白鳥の脱獄後、刑務所の改革は「いかに脱獄を防ぐか」から「いかに脱獄を企てず刑に服せる環境をつくるか」に重点が移されるようになった。秋田刑務所の鎮静房は、白鳥の脱獄後に廃止されている。
関係者の述懐によると、白鳥は恩義に厚く、受けた恩は忘れない義理堅いところがあったようだ。その分、自分に敵対する者、自分を迫害する者には断固として闘う強い意思を持っていた。すべてはその信念が成せる脱獄だっただろう。
凶悪犯罪が起こるたびに、その報道を目にする一般市民は激しく憤る。「あんなやつぶっ殺せ」「死刑だ死刑」「被害者にしたことと同じ事を犯人にしてやれ」など。気持ちは分からないわけではない。加害者の人権擁護だけでなく、厳罰に処することにより、犯罪被害者の家族の救済のほうも勘案しなければならない現状は、周知の事実だろう。
しかし、そうした現状と、刑務所での収容者の処遇とは別問題だ。犯罪者は罰する必要があるが、それは法に基づき、法の決めた範囲内で行わなければならないことだ。決して法の枠の外で、犯罪者個人の人権を蹂躙したり、個人の尊厳を剥奪するような私刑を行ってはいけない。それは別の犯罪行為だ。犯罪者には犯罪をもって処していいというわけではない。
数々の押し込み強盗、人も2人殺してる。間違いなく凶悪犯だろう。こんな犯罪者が20数年で仮出所できる現行法は、おかしいだろうか。府中刑務所の所長の、白鳥に対する処遇は、凶悪犯に対するものではないと思うだろうか。仮出所後の白鳥が、また凶行を犯すと思うだろうか。
個人的には白鳥の脱獄方法にもっとも興味がある。実は僕は機会があったら脱獄に挑戦したいと思っている。できると思う。完全無欠の建物から脱出するのは、単純にパズルとして興味を惹かれる。実際に刑務所に入るわけにもいかんので実行はできなかろうが、「13号独房の問題」(ジャック・フットレル著)のヴァン・ドゥーゼン教授よりは鮮やかに破ってみたい。教授が死刑囚用の独房に持ちこんだのは、歯磨粉、五ドル紙幣1枚、10ドル紙幣2枚、よく磨いた靴だけだった。
白鳥はどうやら「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」という信念をもっていたようだ。手錠、足枷、鎖から鉄格子まで破るのだから信憑性がある。白鳥の脱獄の最も大きな力となっていたのは、手先の器用さ、並外れた体力よりもまず、精神力の強さだと思う。数多の刑務所で収監されている間、看守は白鳥の監視に疲労し、脱獄にびくびく怯えながら勤務した。白鳥はそんな看守をあざ笑い、恫喝し、睨みつけて萎縮させた。囚人が看守よりも精神的に優位に立っている点で尋常ではない。
ただの犯罪者の記録と言ってしまえばそれだけだが、それだけでは片付けられないほどいろんなことが汲み取れる。この記録から何を読み取るかは、読む人次第だろう。
Posted at 07:32 | Philosophy | この記事のURL | Clip!! | コメント(4)
ここのブログはVTRにはない細かい事柄が書かれていて面白かったです。
Posted by:亜矢 at 2009年07月22日(水) 12:42